諸都市の建物の4パーセントは破壊され、全人口72万人中およそ7万人の市民が米軍の爆撃で死亡した。しかも、これは日本の戦争犠牲者の部に過、ぎない。終戦後3ヵ月たったある日、私は東京の北部の郊外で、参列者も少ない倍しい葬列に出会った。人人は、大きく引伸した故人の写真を抱いていた。写真の青年はふっくらとしてあどけなさの残る顔をしていて、いささか当惑しているようにも見えた。彼は、2次大戦で命を奪われた13万人を超える日本の陸海軍兵士の中の、最後の犠牲者の一人であった。日本とアメリカ廃雄に生れた経済大国奇妙なカッフル米軍の占領によって戦争は終わり、幸いなことにもう犠牲者が出ることはなくなった。しかし、日本人たちの苦難はまだ終わらなかったのである。長い戦争によって日本経済は決定的なダメージを受けていた。焼け残った工場も、原料がないためになすすべもなく立往生していた。燃料と名のつくものはすべて払底し、わずかに残っていたタクシーも、木炭を燃料として走るものだった。トファー中尉と呼びかけた。そしてジョージアなまりのゆっくりした口調でこう言った。おれには日本人のやつらに同情する理由など何1つないはずだが、こうして戦勝国の員となってやって来て、この荒れはてた街を走っていると、どうしょうもなく日本人たちが哀れになってくるときがある日本軍の攻撃を巻返すため、南太平洋のジャングルで2、3年にわたる激戦をくぐり抜けて来た者でさえ、1945年後半の日本を見ると、この少将のような感慨を持つのは当然であった。
